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コラム - 建築版温故知新(古きをたずねて新しきを知る)

日本住宅の歴史(後編)

前回に引き続き日本住宅の歴史について、安土桃山時代から話を進めたいと思います。

安土桃山期に完成した書院造の形式は、江戸時代を通じて、茶道から発生した数寄屋の影響を受けながら少しずつ形を変え、徐々に庶民階層にも浸透していきます。茶道は千利休によって完成したとされますが、その後、大きくわび茶の系譜と大名茶の系譜に別れます。この二つの系譜が書院造の形式にそれぞれ影響をしていきます。現在、座敷の形式を「真・行・草」の3段階で表現することがありますが(個人的にはあまり好きな表現ではないのですが)、これは「真」が本来の床飾りを備えた書院造、「行」が大名茶の影響を色濃くうけたもの、「草」がわび茶(数奇屋)の影響を色濃く受けたものと理解すると分かりやすくなります。

江戸時代を通じての普及はまず、町屋では豪商、農村では庄屋や名主といった豪農などの豪邸から始まりますが、江戸末期には中流農家の比較的小規模な住宅にも床の間が取り付けられるなど、一部の特権階級のものだけにとどまらなくなっていたようです。同時に、この時代は技術の展開と共に、地方性豊かな形式が花開いた時期でもあります。今日、民家として見ることの出来る住宅は地域によって様々な表情を見せてくれますが、各地の気候風土に合わせた形や工夫は現在でも感心させられるものが多くあります。

西郷従道邸

西郷従道邸(明治時代、愛知県、重要文化財)

明治に入って社会は大きく変化をしますが、明治政府を担った為政者達は旧幕府時代の上級武士達の真似をすることになります。但し、江戸時代には座敷であった接客空間が洋館に変わっていきました。現在、明治村などで見ることの出来る洋館は、そのほとんどが接客用の洋館と居住用の和式の家を組み合わせた明治期の豪邸の洋館部分のみを残したものです。為政者の住居は形が変化しましたが、庶民の住居は江戸時代とそれほど変化したわけではありませんでした。今でも見る事の出来る民家の中には明治時代に立てられたものが数多くあります。京都の祇園周辺や高山市の三町地区などが代表例でしょう。

高山三町地区の街並み

高山三町地区の街並み(明治時代、岐阜県、重要伝統的建造物群保存地区)

それが変化したのは大正時代にサラリーマンや専業主婦が一般化した後のことです。サラリーマンという家で仕事をしない人たちや、家事の事のみに専念できる専業主婦の出現は、住宅形式に大きな影響を与えました。具体的にはそれまでの間取りに機能性を加味した中廊下式という形式の全国普及です。中廊下式とは中央を東西に通る廊下の南側に居室が並び、北側に水回りなどを並べたもので、玄関近くにはかつての洋館を省略した洋式の応接間が作られました。それまでの各地の多様な地方性は影を潜め、同じ様な住宅が普及していくことになりました。この時期は建築家と呼ばれる人々が一般住宅のプロトタイプを様々な形で提案し始めた時期でもあります。昭和初期に行われた文化的住宅のコンペを見ると、イス式の生活など現在の住宅と同様のプラン提案が成されています。但し、それがすぐ普及したわけではなく、あくまでも一部の進歩的な人々のものでした。新しい形式が一般に普及するのは戦後を待たなくてはなりませんでした。

戦後の大幅な意識変革と絶対的な住宅不足への対応策の中から、今日の住宅が出てきます。DKの発明、プレハブ住宅や2×4工法の発達(これにより従来からの伝統的な工法を在来工法と呼ぶようになります)、洋風の生活スタイルへの変化などがそれです。あとは皆さんが良くご存知の通りですが、現在の我々の住宅を構成している要素は、ここまで述べてきた歴史の中に全て見ることが出来ます。靴を脱いで上がる習慣も、床の間も畳も、在来工法も、なぜ応接間が洋室だったのかもお分かり頂けたでしょうか?

21世紀の住宅が、昔の夢物語にあったような機械的なものになるかどうかは分かりませんが、大きく変化することを余儀なくされるであろう事だけは確かです。これからの住宅がどうなるかを明確に答えることは出来ませんが、ヒントは歴史の中にきっとあると思います。

 
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