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コラム - 建築版温故知新(古きをたずねて新しきを知る)

床の間について(前編)

前回、「木の話」の後編で床の間についてだいぶ話しましたので、今回は「床の間について」お話したいと思います。

床の間といっても、最近の都市部に建つ戸建て住宅では必ずしも床の間を持っているとは限らない状況がありますが、一方で高層マンションにも床の間付きの和室を持つ物件が増えているようです。日本人の住まい観の中に、床の間の占める割合は一度大きく減少して、それが少しづつ上昇している時期かもしれません。戦前までの家長制度の中では、床の間は一家の主人が背にして座る重要なアイテムであったことは間違いないことですが、敗戦による社会と意識の大変革の中で、その位置付けが希薄になった事も事実でしょう。かつては住宅内部のヒエラルキー(階層性)の最上部を表現していましたが、敗戦による意識の大変革もあって、いつの間にかかつての意味合いは薄れて物置と化していたようにも思います。私の子供の頃は、テレビを置く場所だったと記憶していますし、今でも和風の安宿などでは床の間にテレビが置いてあったりします。

しかし、日本人の遺伝子の中に組み込まれたものは少なくないはずです。例えば、欧米人はマントルピースの上に必ず家族の写真を貼っています。そのしつらえは我々日本人が真似しようとしても、なかなか様にならないものですが、それと同様に、床の間廻りのしつらえをさせたら、日本人は欧米人に真似の出来ない事が出来るはず(?)なのです。残念ながらその感覚は、和服を着る習慣などと同じように、現在の若者が次の世代を育てる頃には絶えてしまっているかも知れませんが・・・・。

床の間が日本建築の中で成立するのは、室町時代後期のことです。現在「床の間」と呼ばれているスペースは、以前は「床」と呼ばれていて、さらに、書院造の主室(上段の間など)を「床」のある部屋の意味で「床の間」と呼んでいたようです。「トコ」というのは、周囲より一段高いという意味があるようで、その形からこのように呼ばれるようになったのではないでしょうか。書院造は寝殿造が簡略化された形であり、武士が政権を握るようになった時、貴族の住まい(寝殿造)を真似て作り出されたものです。その中で、床の間を中心とする座敷飾り(床・棚・書院・帳台構)は書院造を象徴する空間として、重要な地位を占めています。その完成形としては、江戸時代初期の二条城二の丸御殿や西本願寺白書院、桃山時代の醍醐寺三宝院表書院などが代表格でしょう。

醍醐寺三宝院表書院

醍醐寺三宝院表書院 内部(床の間) (国宝・京都)

鎌倉時代に日本に入ってきた禅宗においては、僧侶が住まう建物を方丈と呼びますが、その中の生活する部屋を「書院」と呼びました。これが書院造の語源でもあるのですが、そこで、僧侶は寝起きし、経を読み、仏を拝みました。今で言えば、寝室兼書斎のような部屋です。床の間は、元々、書院での生活から出てきた極めて実用的なものなのです。当時、僧侶たちはこの部屋で壁に仏画を掛け、その下に前机を置いて三具足(花瓶、香炉、燭台)を飾っていました。花瓶に花を生け(後に池坊によって華道として成立します)、香炉で香を焚き(後に香道に発展します)、燭台に蝋燭を立てて、仏画を拝んだ訳です。この前机が後に建物に作り付けになり、その形から「押板」と呼ばれました。これが床の間の原型です。つまり宗教活動の道具だったのです。この成立過程を考えれば、床の間に掛軸を掛け、花を生けた花瓶や香炉が置かれたりするのは当然のことと言えます。押板は当初奥行き一尺で幅六尺程度のものですが、後に権力を象徴する空間として非常に豪華になったり、侘茶の影響で簡素になったりと、様々なバリエーションが作り出されていきます。

書院造を構成する重要な要素である座敷飾りの他の要素では、「棚」は用途が想像できると思いますが、当時、経典などの巻物や書物を収納するための置き棚という一種の家具のようなものがありましたが、これを建物に作り付けにしたのが「棚」です。禅宗の普及に伴って、中国から唐物(香炉などの置物や陶磁器など)が大量に輸入されたのですが、それを陳列する場所としても流行したようです。

座敷飾りの内の「書院」というのは、床の脇に設けられる採光用の窓で、廊下や室外にせり出す形式が多く、明かり障子によって明るさを確保した書台の様なものですが、これは書物等を読み書きする文机を作り付けにしたもので、当初は「出文机(いだしふづくえ)」と呼んでいました。前述の通り、書院というのは部屋の名称で、いつの間にかそれがこの装置の名称に転用されたものと考えられます。

床・棚・書院はともに僧侶の日常の実用から生まれてきた形式ですが、後にそれが武士の権力が強まるにつれて、装飾として形式化していったものと考えられます。初期の書院造の遺構としては、室町幕府八代将軍足利義政の建立になる京都の慈照寺(銀閣寺)の東求堂(国宝、室町中期)が有名で、その一室である同仁斎という部屋は、付け書院と棚を並べた小部屋で、機能的には現代住宅の書斎そのものです。この当時はまだ権力の象徴というよりは実用段階で、義政自身は東求堂の完成を待たずに亡くなってしまったようですが、同仁斎の棚にどのような書物を並べようか学者に相談している記録があるそうです。今回は「床の間」を一回で書こうと思ったのですが、筆が進んで字数が尽きました。座敷飾りの続きは次回に割愛させて頂きます。

慈照寺 東求堂

慈照寺 東求堂 (国宝・京都)

慈照寺 東求堂内部

慈照寺 東求堂 内部(同仁斎) (国宝・京都)

 
 
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