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コラム - 建築版温故知新(古きをたずねて新しきを知る)

床の間について(後編)

前回に続いて、座敷飾りの話からさせて頂きたいと思います。

座敷飾りの最後である「帳台構(ちょうだいがまえ)」というのは、通常は棚の脇に設置される小部屋の入口です。床の間の正式な形は、下の写真でお分かりのように、正面(普通は南向き)左に床、その右側に棚が並び、正面左の側壁に床に接して書院、正面右の側壁に棚に接して帳台構が付くのです。これが「本勝手」で、左右が逆転するのを「逆勝手」といいます。この時の帳台構は、良く「武者隠し」とも言われ、この小部屋に武装した家臣が潜んでいて、主人に危険が迫った時に、飛び出して救うという説明がされています。但し、実際にそのように使われたという事実はあまり無く、おそらく後世の作り話の類ではないかと思っています。実際そのような用途を考えたのかもしれませんが、元々は「納戸構え」とも呼ばれるように、寝室への入口なのです。

「納戸」とは現在では収納を意味しますが、昔は寝室の事も意味しており、「帳台」というのも、寝殿造りなどにしつらえた几帳で囲った就寝スペースの事ですから、似たような意味です。納戸は通常、壁や建具で囲い、閉鎖性の高い部屋でしたから、収納としては勿論のこと、寝室としても適していたので、いつの間にか混同した意味になったと考えられます。禅宗における書院は書斎兼寝室のようなものですが、隣接して収納スペースでもある納戸が設けられる事も多く、座敷飾りの中に装飾として取り込まれたのでしょう。他のものに比べて必然性に乏しいのは確かで、江戸時代に床の間が民間にも広まっていく過程では、最初に省略される運命のアイテムでもありました。

床の間は、室町時代末期(戦国時代や安土桃山時代と呼ばれる時期)、特に、豊臣秀吉が効果的に使ったと思われます。秀吉は家臣を集めたときに、自ら床の間に座ったという記録があり、恐らく床の間を背にして上段の間に座っていたのではないかと思いますが、自らの権力を誇示する装置として活用したのではないでしょうか。江戸時代に入ると、徳川幕府が絡んだ大規模建築には必ず、見事な床の間が設置され、寺院などでも数多く作られました。しかし、あくまで武士の威厳を示すためのものですから、一般の庶民には関係の無い話でした。武家屋敷にはその格に合わせた床の間が作られましたが、町家や農家に設置されるのはもっと後のことです。それも名主(関東での呼称)や庄屋(関西での呼称)、肝煎(東北・北陸での呼称)クラスの豪農や豪商の家に限られています。これは床の間が、あくまでも自分たちのためのものではなく、迎え入れる武士のためのもので、普段は自分たちも足を踏み入れない部屋であり、また、そのような武士を迎えるクラスの家にのみ許されたものだったからです。現在、数多く残されている民家ですが、そのほとんどに床の間を見る事が出来ます。そのことは残っている民家のほとんどが、豪農・豪商クラスの家である事の証明であり、一般庶民の家は残すに値しないし、残るような耐久性も持っていなかった事をも証明しているように思います。

横山家住宅内部 (北海道江差の豪商の床の間)重要文化財

横山家住宅内部
(北海道江差の豪商の床の間)
重要文化財

堀田家住宅内部 (愛知県津島の豪商の床の間) 重要文化財

堀田家住宅内部
(愛知県津島の豪商の床の間)
重要文化財

 

現在の床の間には「真」「行」「草」と呼ばれる様式?があります。個人的にはあまり好きな分け方ではないのですが、よく言われることなので触れておきます。これまで述べてきた座敷飾りは、「真」に当たるものと考えて結構です。あくまで武士の威厳を象徴した格式高いもので、例えば床柱は檜の角柱で柾目のみです。一方で皮付きの曲がった丸柱などを使った床柱もあります。これらは数奇屋の影響で変化したものです。

絲原家住宅内部(島根の山林王「真」の床の間)

絲原家住宅内部(島根の山林王「真」の床の間)

ご存知のように千利休によって大成された侘び茶は、侘び寂びの世界を風流に思い、田舎屋風の茶室をわざわざ作り上げました。武士はもちろん町人にも広まっていった茶道の影響は非常に大きく、侘び茶風の、床の間を一番崩した形式を「草」と呼びます。現在ではそれらのデザインも様々な決まり事が作られていますが、元々は数寄者(茶人)の思う通りのデザインで作り上げるものであり、当時の優秀なデザイナー達(利休、織部、有楽、遠州など)によって自由闊達な意匠がたくさん創作されました。この侘び茶の影響が書院造に及び、数奇屋風書院と呼ばれるものが出来てきます。侘び茶では武士に合わないと考えて作り出された大名茶などによるものですが、著名な桂離宮などはこの数奇屋風書院の典型です。「真」「草」の中間を行くもので、これを「行」と呼びます。これらは後世の命名であって、当初から言われたものではありません。便宜的に名付けたと考えて結構です。ディテール集など出ていますので、詳細を知りたい方は参考にして下さい。

桂離宮の茶室 松琴亭内部 (「草」の床の間)

桂離宮の茶室 松琴亭内部
(「草」の床の間)

曼殊院内部(京都「行」の床の間)重要文化財

曼殊院内部
(京都「行」の床の間)
重要文化財

 

建築の世界では、当初は明確に機能を果していたものが、後に装飾となっていくことは珍しいことではなく、むしろ当然のことと言っても良いほど一般的で、歴史の常識でもあります。例えば、「木の話」で紹介しましたギリシャ建築の列柱は、石の梁を支えるため、短いスパンで並べられたものですが、それが、アーチを発明して列柱の必要のなかったローマ建築では意匠として扱われ、ルネッサンス時代には装飾様式として復活し、近年またポストモダンの流行で注目されました。しかし、床の間は、当初の機能が武士によって権力の象徴として様式化されたり、敗戦によって思想的に抹殺?されたりしていますが、それにも係らず、現代でも花を飾ったり、掛軸を掛けたりしています(そうはしていなくても、そうするものだということを知っています)。非常に均質化してしまった現代の日本住宅では難しいことかもしれませんが、やはり、日本人の生活習慣あるいは精神構造に深く根付いている証拠ではないでしょうか。

敗戦後の日本では、住宅の絶対的な不足もあって、欧米的合理性が追求されてきました。しかし、衣食住といわれる生活の要素は、それぞれが文化そのものであり、特に「住」は「衣」や「食」に比べても、容易に捨て去る事の出来ない極めて文化的要素の強いものだと考えます。その意味でも、「床の間」に代表される日本の住文化をもう一度見直してみる必要があると思うのは、私が歴史大好き人間だからでしょうか? あるいは皆さんもそう思って頂けるのでしょうか?

 
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