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コラム - 建築版温故知新(古きをたずねて新しきを知る)

フランク・ロイド・ライトについて(前編)

日本では、建築について学んだ人であれば、まず間違いなく知っているであろう外国人建築家と言えば、フランク・ロイド・ライトが最右翼であることは、あまり異論のない事でしょう。今回から、日本の建築史では異彩を放つ、(私個人としても大好きな)この大建築家について話したいと思います。ライトが日本でここまで有名なのは、旧帝国ホテルの存在が大きいと思います。さらに、ライトは生涯に800件(その内の半分が実現した)もの建築設計を、70年に及ぶ実動期間に行なったという化け物のような建築家ですが、実はあまりワールドワイドではなく、実物件はほとんどがアメリカ国内に限定されていて、アメリカ以外では、カナダに数棟(しかもすでに現存しない)と日本に6棟を数えるのみというほどです。日本には6棟の内、4棟が現存し、しかもライトの生涯でも最大級の作品である帝国ホテルを、一部を移築しただけとは言え、見る事が出来ます。ちなみに日本におけるライトの設計は12件を数え、その中の6件が実現しましたが、林愛作邸(一部)1917、自由学園1921、帝国ホテル(一部)1923、山邑太左衛門邸1924が現存しています。帝国ホテル別館1923は取り壊され、箱根の福原有信邸1920は関東大震災で倒壊しました。(西暦は竣工した年、以下も同様)

ライトは住宅建築家として世に出て、終生、その立場を変えなかったと言うか、その外の大規模建築の機会が与えられなかったと言うか、どちらにしても、壮年期の帝国ホテルなどと、晩年のジョンソン・ワックス本社やグッゲンハイム美術館、マリン郡庁舎などのごく一部を除いては、作品のほとんどが住宅なのです。これまでに挙げた作品以外では、傑作と言われるウィンスロー邸、ロビー邸、カウフマン邸など、住宅ばかりです。ライトがアメリカ国内で大規模建築を手がけたのは、晩年に限られているのに、なぜかアメリカ国内での知名度も人気も高いのです。それは、通常切手に肖像が描かれ、サイモン&ガーファンクルが「FLライトに捧げる歌」を作り、映画タワーリングインフェルノで、冒頭の建築家が砂漠からヘリコプターで出発するシーンはライトがモデルだと言われるほどですから相当なものです。何故かと言えば、私見ですが、ライトはきわめてアメリカ的な建築家と言えるからではないでしょうか。アメリカの中部に生まれた純粋のアメリカ人(アメリカ人に純粋と言う表現があるのかどうか知りませんが)であり、波瀾万丈のドラマのような生涯を送り、最終的に成功者になった辺りが、アメリカ人好みなのではないかと思います。

ライトは1867年ウィスコンシン州リッチランド・センターという小さな町に生まれました。 18歳で両親が離婚し製図工として働き始めます。20歳でシカゴへ出て、シルスビーという建築家の事務所で修行をしました。翌年アドラー&サリバン事務所に移ります。ルイス・サリバンはライトの師匠とされる人物で、アールヌーボー風の植物的装飾を得意とした人気建築家でした。現在でもシカゴでカーソン・ピリー・スコット百貨店やオーディトリアム・ビルなどの作品を見る事が出来ます。ライトは、師匠サリバンがフリーハンドで描く見事な装飾文様を見て、これはとても敵わないと思ったのか、自分は直線的なデザインをするようになったと言われています。

入所の翌年に結婚したライトはシカゴの郊外、オークパークという住宅地に自邸兼アトリエ1889を自らの設計で建てます。これが建築家ライトの処女作と言って良い作品です。現在でも財団によって管理され、見学することが可能ですが、後のプレーリーハウスと呼ばれるデザインの原形を見る事が出来ます。この頃から才能を発揮し始めたライトは、事務所内で住宅を専門に担当するようになったようで、若いのに独立した部屋を与えられるほど優遇されています。

自邸兼アトリエ

自邸兼アトリエ

シルスビー事務所に在籍した当時、日本贔屓であった所長のシルスビーの美術品などに触れたと思われるライトは、1893年のシカゴ博覧会で日本が出品した「鳳凰殿」を目の当たりにしたようです。サリバンの事務所でも博覧会場に建設されたいくつかの建物を設計していましたので、建設中から鳳凰殿を見ていたに違いありません。この時期頃から日本美術に対する興味が広がったようです。ライトは自分の作品に見られる日本趣味(日本で人気のある理由の一つですが)を、生涯、認めようとはしませんでしたが、実は浮世絵の収集家としても知られていて、一時期は浮世絵を扱う美術商の様なこともやっていました。1905年に初来日をしますが、浮世絵の収集が主な目的であったと考えられます。その証拠に、1906年と1908年にシカゴ美術館で浮世絵展を開催したり、コレクションを出品したりしています。とにかくライトが日本的なるものに深く精通していた事は確かでしょう。

住宅建築家として自信を付けたライトは1893年に独立(アルバイトがばれてクビになったとも言われます)しますが、この年に出世作となるウィンスロー邸が竣功しました。深い軒と大きな屋根、水平線を強調したデザインはプレーリーハウスの1棟目とも言えるもので、現在でもその美しさは見事です。草原地帯に生まれ育ったライトには自然なデザインだったのかも知れませんが、ヨーロッパ指向の強かったアメリカでは、それまでに無い独創性溢れたデザインで、多くの人に認められた結果、その後ライトに住宅設計の依頼が殺到する事になりました。この時期を「第1期黄金時代」と呼びます。現在でも自邸のあるオークパークとその隣に広がるリバーフォレストにはライトの作品が数十棟も残されています。中にはクイーンアン様式などの新古典主義の住宅も多くあり、明らかにライトの指向と異なるデザインで、恐らく施主の要望を新進建築家としては無視出来なかったのではと思えるものです。ライト設計の住宅は現在でも評価が高く、100 年以上前の住宅に普通の生活をしている人たちが、ライトのデザインを尊重しつつ(大きな改変もせずに)住んでいるのです。オークパークなどでは、自邸やウィンスロー邸の他には、プレーリースタイルの作品であるハートレー邸1902やチェニー邸1903などは押さえておきたいものです。

ウィンスロー邸

ウィンスロー邸

ハートレー邸

ハートレー邸

 

ちなみに、この時期のライトのデザインは、現在の日本の住宅(特に2×4系)のデザインに多大な影響を与えています。あちらこちらにライトの亜流(失礼!)の姿をした住宅が建設されているのは、皆さんご承知の通りです。ところで、住宅ではありませんが、オークパークのユニティ教会1906も傑作として名高く、機会があれば是非見て欲しいものです。複核プランと呼ばれる、機能の異なる空間を巧みに組み合わせることに成功しています。ライトは空間構成の魔術師で、段差や広さ狭さなどを計算した上で、次々と視界が変化するようなドラマチックな空間を生み出しています。ドアをあまり用いずに、空間変化だけで空間を仕切る事もしています。現代にも通じるオリジナリティの高さは、さすがと言わざるを得ません。後にタリアセンを開設して、建築家の教育にも力を注いだライトですが、弟子に指示する時にはあたかも目の前に図面があって、それを読むがごとくに詳細な寸法指定まで指示したと言われています。きっと頭の中には図面が出来上がっていたのでしょう。天才たる所以ではないでしょうか。

ユニティ教会

ユニティ教会

ユニティ教会(内部)

ユニティ教会(内部)

 

シカゴ大学の構内にプレーリースタイルの最高傑作と言われるロビー邸1909が建っています。シカゴ大学が管理するこの住宅は、水平線を強調するために長く伸ばした庇が印象的な建物ですが、この庇のためにライトは当時まだ一般的でなかった鉄材を構造材として用いるなど、先進性を見せています。内部構成も直線的な装飾もライトならではのものです。面白いエピソードとしては、完成後、突然現れたライトは自らが設計した椅子などの家具を、施主が自由に位置を変えて使っているのを見て激怒し、自分で元の位置に戻して決して動かしてはならないと言い放って帰ったそうです。本当かどうかは定かではありませんが、そのせいかロビー氏は完成後数年で、この傑作住宅を売却してしまいました。

ロビー邸

ロビー邸

ロビー邸(内部)

ロビー邸(内部)

 

今回は生まれから第1期黄金時代までを述べました。次回はこの続きを述べたいと思います。

 
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