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コラム - 建築版温故知新(古きをたずねて新しきを知る)

フランク・ロイド・ライトについて(中編)

前回に続き、F・L・ライトの不遇時代と日本での活躍について述べたいと思います。

ロビー邸の完成した1909年はライトにとって大きな転換の年になりました。先に挙げたチェニー邸の施主の夫人と不倫関係になったライトは、2人でヨーロッパに駆け落ちしてしまったのです。ここから波瀾万丈の物語が始まりました。それまでの名声が一気に地に落ちてしまい、ライトに設計を依頼する人がいなくなってしまいました。「不毛、失われた時代」と呼ばれる時期の始まりです。それでもライトは1910年ドイツでプレーリーハウスの作品集を出版し、大反響を巻き起こします。当時はヨーロッパにおける近代建築の勃興期で、大きな影響を与えたと考えられます。

ライト自身は近代建築家として括られますが、本人はその呼び名には嫌悪感を示したようで、後にアメリカに渡ったモダニズムの大家、ワルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエなどを毛嫌いしたと言われています。パーティで出会ったグロピウスがライトに握手を求めた時、ライトは決して握手しようとしなかったと伝えられています。また、ライトの言葉で「住宅は芸術作品たることによって、より住まいらしくなる」というものがありますが、これはモダニズムの大家ル・コルビュジェの「住宅は住むための機械である」という有名な言葉に反発したと見る事も出来るのです。ヨーロッパ的で理論主義的なモダニズムは、ライトの建築とは根本的に異なるものに思えてなりません。理論とあまり関係無く湧き出るようなライトのデザインは、教条的な(ライトから見て、実はそうではないのですが)モダニズムのデザインと最も遠い存在だったのかもしれません。個人的な見解ですが、自然に学んだロマン主義のアントニオ・ガウディ(ライトの一世代前)や、モダニズムに見えて実はモデュールなど考えた事も無いアルバー・アアルト(一世代後)などに、ライトは近いのではないかと思います。

1911年ヨーロッパから帰国したライトは、シカゴに事務所を構えますが、仕事の依頼は無く、チェニー夫人のことがあってオークパークに戻る事も出来ず、母親が用意してくれた故郷ウィスコンシンのスプリンググリーンという所の敷地に、タリアセンを建設します。これは、設計の機会が無くても教える事は出来ると、弟子達と共同生活をしながら建築を教える私塾を作ったのです。この頃に日本から帝国ホテルの設計依頼が届きます。設計に着手したライトですが、彼をさらに悲劇が襲います。タリアセンの使用人が発狂?して、チェニー夫人と遊びに来ていた2人の実娘、それに弟子達を殺害し放火してしまったのです。マスコミはこぞってライトを非難し、誰もが二度と立ち上がれまいと思うほどのダメージを受けてしまいました。しかしライトはそれにも挫けず、タリアセン?1914を完成させ、帝国ホテルの設計も本格化します。ところで、ライトは生涯に3人の女性と結婚し、チェニー夫人とは同棲した恋多き人です。基本的にはアメリカ人によく見られる保守的な人ですが、恋愛に関しては情熱的だったようです。何度もの悲劇に挫けなかった活力も建築への情熱に加えて恋愛にあるのかもしれません。

帝国ホテルの設計とともに、日本での生活が本格化して、日本における設計活動も始まります。まず、帝国ホテルの支配人であった林愛作の自邸が1917年に完成します。現在は玄関とホール部分など一部が、東京世田谷の電通の社宅内に残されています。見るからにプレーリースタイルのデザインですが非公開です。続いて箱根に福原邸1920年が完成します。残念ながら関東大震災で倒壊しましたので現存しません。図面で見る限り、林邸と同様にプレーリースタイルです。

当時、女性の社会的地位向上や生活の改善などを目指して、婦人之友社などを設立して活動していた羽仁吉一・もと子夫妻は女子教育の必要性を痛感し、自由学園を創設する事にしていましたが、その設計を教会が一緒で知人であった建築家遠藤新を通じてライトに依頼したところ、その趣旨に共鳴したライトは短期間の内に設計を仕上げます。この時に協力したのが、仲を取り持ち、ライトの日本人スタッフでもあった遠藤新でした。自由学園はライトの設計では他にあまり例を見ない連名の設計になっていて、遠藤の努力が大きかった事が伺えます。自由学園では、特に開校まで余裕がなかったため、一部の校舎は設計から1〜2ヶ月で竣工するという突貫工事だったようです。1921年に開校後、人気が出て在校生が増えたため、1927年には遠藤の設計で(ライトは既に帰国していた)講堂が新たに建設され、それでもたちまち手狭になって、1934年、東京の東久留米に新しい校舎を建設して移転しました。設計はもちろん遠藤です。東京池袋に現在も残る自由学園は、講堂も含めて国の重要文化財に指定され、見学も可能です。特に中央のホールが多彩な空間構成で見せ場となっています。

自由学園明日館

自由学園明日館
(重要文化財 東京池袋)

自由学園明日館

自由学園明日館
ホール内部

 
自由学園明日館

自由学園明日館
教室内部

自由学園講堂

自由学園講堂
(遠藤新設計 重要文化財)

 

その間、帝国ホテルの工事は、江戸時代は入江であった日比谷の泥田のような地盤に、筏地業を施したり、未知の工法への戸惑いなど、難工事で遅々として進まず、当初の予算を大幅に超過する事態に至りました。その責任を取って支配人林愛作は辞任し、ライトも解任されて1922年帰国してしまいました。後を引継いだのが、弟子の遠藤新とタリアセンで学んだアントニン・レーモンド達でした。彼らの努力でホテルは無事竣工します。皮肉な事に1923年(大正13年)9月1日、完成披露パーティーの当日に関東大震災が発生します。幸いホテルはほとんど無傷で残り、当時、帝国ホテル会長であった大倉喜八郎がアメリカのライトに宛てて「ホテルは天才の記念碑のように無傷で建っています。おめでとう!」と打電したエピソードは有名です。ライトは帝国ホテルについて「あたかも軍艦がヘドロの上に浮かぶように設計した」と述べていますが、現在の技術で言えば、効果的であったかどうかは疑問です。

帝国ホテル旧館

帝国ホテル旧館
(愛知県 明治村)

帝国ホテル旧館

帝国ホテル旧館
内部

 
帝国ホテル旧館

帝国ホテル旧館
内部

ライトの2人の弟子について述べたいと思います。日本人スタッフとして腕を振るった遠藤新はその後もライト的建築を設計し続け、息子の遠藤楽もライトに師事して、親子2代でライト建築を追求した希有な例と言えます。レーモンドも日本にとどまって設計を続けますが、対照的に早くからライトの影響から脱しようとする努力が見られます。東京女子大学の礼拝堂1934ではオーギュスト・ペレ風に作り、リーダーズ・ダイジェスト東京支社1949(現存せず)ではモダニズムで表現しています。彼らに限らず、ライトに影響を受けた建築家は数多くいますが、前にも述べたように、ライトのデザインはライト独特で、まさにオリジナリティの固まりです。単純に真似をするのは簡単ですが、そうするとライト以外の何者でもなく、その精神を咀嚼して自分らしさを出そうとすると、ライト的ではなくなってしまうという、ある意味で至難の業と言えるのではないでしょうか。

帝国ホテルは長く利用者に愛されましたが、1968年、老朽化のため解体され、その玄関とホールなどが愛知県犬山市の明治村に1985年移築されました。デザイン的には、大谷石を加工した、マヤ・アステカ文明を思わせるエスニックなディテールで覆われています。これはタリアセンで設計された、東海岸に少数ですが建てられたバーンスデイル邸1920等(他にはエニス邸、ストーラー邸などが知られる)と同様のデザインで、模様を刻んだブロックによって建設された、垂直方向を強調したものです。プレーリースタイルの正反対ですが、これはカリフォルニアなどの暑さを考慮したものと言われています。このデザインは山邑太左衛門邸1924にも適用されています。

芦屋の高台に建つ山邑邸は、桜正宗という灘の清酒を造る造り酒屋のオーナー宅で、傾斜地のため基礎工事に苦労したようです。しかしそのため素晴らしい眺望に恵まれています。大正以降の建築物として始めて重要文化財に指定されるなど、高い評価を受けていますが、建設当初の姿をほぼそのままとどめています。現在は、淀川製鋼所の貴賓館として利用されていて、日時を決めて公開もされています。ライトが帰国後に建設され、図面が日本語で書かれるなど、実施設計は遠藤の手になると考えられており、畳の部屋もあって日本的な調整がされています。しかし、その独特のディテールはプレーリースタイルとは異種の雰囲気を漂わせています。ちなみに山邑家は造り酒屋の割には西洋好みが強かったようで、東京にあった山邑酒造東京支店1927(現存せず)も佐藤功一設計による洋風建築でした。

旧山邑邸

旧山邑邸
(兵庫県芦屋 重要文化財)

旧山邑邸

旧山邑邸
ロビー内部

 
旧山邑邸

旧山邑邸
応接室内部

字数が尽きましたので、今回はここまでにしたいと思います。後編ではライトの晩年について述べます。

 
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